早いもので6月も最後の1週間となりました。2018年も半分が終わろうとしています。弊社は7月が決算月ですので、本年度の目標達成に向けていよいよラストスパート!元気に走り抜く所存ですので、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

ところで5月のGW、45年振りに台北を訪れました。友人が台湾の有名な会社の社長なのですが、彼が現地に居るうちにと急遽思い立っての家族旅行となりました。実を言うと、台北には二十歳の頃に1年間滞在しており、私にとって台北はいつまでも忘れることの出来ない、青春の思い出が染み込んだ街でもあります。日本に帰国してからもずっと第二の母国と思うほどでしたので、今回の旅行ではどうしても行きたい場所がありました。

■私が住んだ街

45年前の台北の市街地には二階建ての店舗が並び、舗装されてない場所も多く、屋台があっちこっちに連なっていたものです。人は優しく、街全体に活気があり、賑やかなところというのが第一印象でした。

今回、一番訪れたかった場所は、私が住んでいた羅斯福路(現地読み:ロースフル、英語読み:ルーズベルトストリート)の3段、すなわち台湾大学すぐそばの羅斯福路3丁目。当時の家があったのは、この辺のはずです。

羅斯福路  住んでいた辺り

当時、毎日のように台湾大学に出かけては、グラウンドで行われていたテコンドーの練習に参加、憧れのブルース・リーを目指したのでした。テコンドーが韓国の格闘技だと知るのは日本に帰ってからでしたが、米軍の空軍基地に勤務する米兵も一緒に参加していたこともあって、台湾人とアメリカ人の友人が一気に出来たものです。それに加えて、普段は台湾師範大学の国語教学センターで1日2時間、週5日中国語を勉強していましたので、すぐに言葉の支障はなくなりました。語学の習得には、現地の友人と好奇心が欠かせませんね。

国立台湾師範大学

■忘れることの出来ない味と悪友たち

思い出の味は、屋台で食べた絶品の牛肉麺、鴨飯、マンゴー、飲茶、そして一度食あたりをした魯飯です。台湾大学の前やすぐ近くの師範大学横にあった屋台広場は、いつも夜中まで人が一杯で、それはそれは楽しかったです。屋台のビーフンは3元、客飯(定食)屋ではおかず一品とごはん、スープで一人15~20元。当時の感覚でも驚くような安さです。

しかし、いくら安いと言っても、毎度たかられていてはたまったものではありません。いつも食事をしていたベトナム人とシンガポールの華僑の友人がいましたが、お会計の段になると彼らは忽然と姿を消すのです。判っていても、まんまと私が払う羽目になっていたことを思い出すと、今も苦笑してしまいます。

現在の料理店のメニューも驚くほど安い! 現在の台湾1元はおよそ3.6円

こんなこともありました。とある日曜日、男5人でピクニックに行くということになり、台北駅から電車である湖に行きました。男ばかり5人な訳ですから、到着するなり挙動が怪しい(笑)。同じ人数の女の子に声をかけてはナンパをするのですが、希少な若い日本人ということと怪しげな中国語を操る私は、きっかけ作りに最適だということで先陣を切ってナンパ、いえお声掛けをしたものでした。

外国人訛りを武器にした私の「どこから来たの?」できっかけを掴むと、そこに悪友全員が合流、あとは彼らが場を盛り上げるというパターンでしたが、当時は現地に若い日本人は少なく、変な中国語を話す私はユニークで面白い存在だったのでしょう。

■パパイヤは恋の味?

当時、周囲に喫茶店というものがなく、学生たちはフルーツ店でフルーツジュースやカットフルーツを食べていました。確か3~5元だったと思います。私が通っていた師範大学の国語教学センターには日本人以外の外国人も在籍、そこで中国語を勉強していたアメリカ人の華僑といつしかとても仲良くなりました。

彼女と何度もフルーツ店に行っては、そこで彼女から英語を教わり、お礼に私が日本語を彼女に教えるといった、今思えばとても淡い恋物語。二人とも変な中国語でしたから、周囲の人には不思議な光景だったかもしれません。いつも注文していた木瓜牛乳汁=パパイヤ牛乳ジュースの味は、甘酸っぱい思い出となりました。

木瓜牛乳汁は今も人気メニュー

甘酸っぱいと言えば、もう一人忘れられない女の子がいます。当時、自宅でダンスパーティーを開くのが流行っていました(ディスコはホテルにしかなく、学生はとても行けなかったのです)が、私の家は一階で広いリビングがあり、家具もなかったため、ダンスパーティーにはうってつけでした。旧暦の二十歳の私の誕生日には、40~50人もの友達が来てくれました。

部屋の壁側に椅子を並べ、真ん中でみんなが思い思いに踊るのですが、男性は気に入った女の子がいると「踊っていただけないでしょうか?」と声を掛けるのです。ホースやチャチャ、チークといったステップが2曲ずつかけ続けられる中、女の子にOKをもらうとまずは2曲踊り、互いに盛り上がれればそのまま踊り続けられるというシステム。

その時、当時も今も台湾では値段が高いリンゴを食べている可愛い女の子を目に止めた私は、その子に林檎小姐(ピンクオシャオチエ)と声を掛けたのでした。ユーモラスな私の声掛けに周囲のみんなは大いに受けてくれましたが、豈図らんや。残念ながら、林檎小姐からOKをもらうことは出来ませんでした。


当時の家と似た建物

■今日の台湾バブルに思うこと

このように当時は毎日が楽しく忙しく、悪友たちが休みの日にも訪ねて来るので、まともに休んだ記憶がありません。台北での1年はあっという間に過ぎ去りましたが、今も当時のことが鮮明に思い出せるのは、それだけ濃密な時間を過ごせたからなんでしょうね。

次回は、バブルの様相を呈している台湾経済と不動産事情について、思うところを書いてみたいと思います。

アジアNo.1の高層ビル「台北101」

 

ニイハオ!台北!

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